複数の胸騒ぎ Uneasinesses in plural by Nishi Masahiko
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「私は『ショア』Shoah(1985)の日本公開(1995)にあたって、ポーランド語部分とイディッシュ語部分のチェックにあたらせてもらったこともあり、そこで、とくに印象深く思ったことがある。
『ショア』はランズマン監督がフランス人で、ドイツ語にも英語にも堪能なため、証言者で、それら三言語のいずれかを操れる者には通訳を介さない聴き取りがおこなわれている。ヘウムノ収容所の生き残りであるシモン・スレブルニクは、ドイツ語だし、イスラエルに移住してから英語を覚えたらしいアブラハム・ボンバは英語を話す存在として画面に登場する。逆に、上の三言語が話せないポーランド人は、ロンドン亡命政権に身を置いたヤン・カルスキが英語で話す以外は、通訳を入れてポーランド語、アブラハム・ボンバ以外のイスラエル在住のホロコースト・サバイバーは、通訳を入れて、イディッシュ語やヘブライ語で受け答えする。これが『ショア』における言語的ヒエラルキーだ。」
「もし、ランズマンがポーランド語やイディッシュ語を解し、話すことのできる東欧系ユダヤ人なら、映画はまた違った情趣を醸し出していただろうし、証言の中身さえ、微妙に違ったものになっていたはずだ。つまり『ショア』は、どこまで行っても、英独仏を操るユダヤ系フランス人が作成した「多言語映画」なのだ。映画作成者の言語使用能力が、その映画の味わいにかなり決定的な影を落とすこと。字幕作成に多少なりとも関わるなかで、私が感じたのはそのことだった。」
ふぇーすぶっくのパーマネントリンクがよくわからないのでごめんなさい
ハイクでは何度もかいてる西成彦氏、このかたの仕事は追いかけるぞとおもってるのだ。