キリスト者でない私がごくわずかな知識から想像する限りでは、中絶というテーマはカトリックにとって最大の難問のひとつに触れるだろう。カトリックが中絶を禁忌としていることは信者でない私たちのあいだでは驚きや怒りをもってよく語られるが、しかし当の信者は信心深いほどそれを語ることに慎重になるのではないか。実際、とあるイタリアのメディアにおける読者から神父への相談コーナーで、女性が望まない性交によって妊娠した場合にも中絶は肯定されないのかと読者が問うたとき、神父は答えることをぎりぎりまで引き延ばしているようだった。
なぜか。神父がその理由を直接語ったわけではないが、私には神父が二択の難問に急いで答えてはならないと自戒しているように見えた。すなわち、中絶によって生を得られない子と、性暴力によって魂を殺された女性の、どちらの側にあなたは立つのかという難問である。およそヤフー知恵袋や匿名掲示板でカトリックを語るキリスト者でない人々の多くは、カトリックはこの問題では前者の側に立つと性急に断定するだろう。しかし私たち自身ならまだしも、真に神の慈愛を尊ぶあの人々が、どうしてためらいなくそう言い切ることができるというのだろうか? 最も貧しい者や弱い者の側にこそキリストはいると説き続けてきたあの人々が? あの人々は、宿った子は宿らされた女性より弱い存在であるから優先されるべきだなどと、唯一神ですら言わなさそうな判決文を大胆不敵にものたまうだろうか? 確かにそういう人はいるかもしれないが、その人があまり信心深くなさそうだということはキリスト者でない私にも分かる。信心深い人なら、片方を断じて決着するとは思い込まず、たとえほとんど不可能であっても何とかして両方の力になれないかと苦慮するのではないか。
通勤電車の中で考えるのことを語る