「国民統合の象徴」を燃やすこと
今から三十年前、1989年の6月21日に、アメリカ連邦最高裁判所で、星条旗焼き棄て事件に関する「テキサス州対ジョンソン」訴訟の判決があり、州法による刑事罰の適用は、憲法修正一条(言論などの自由権)に違反すると判断された(5対4)。
最高裁の多数意見は次のようだった(参考:Flag-burning Overview | Freedom Forum Institute)。
「州法は、社会通念として見解自体が不快または受け入れがたいとされているだけでは、その見解の表現を政府は禁止できないという、修正一条の根底にある基礎理念に違反した」
「政府はただ意見に同意できないというだけで表現を禁止することはできず、それは意思を表明するのにどの方法が選択されたかに依存しない」
「政治的抗議の手段として国旗を燃やしたことについて刑事罰を課すことはできない」
この翌日、連邦議会上院は、判決を非難する決議を97対3という圧倒的多数の賛成により採択。さらに、上下両院は10月中旬、国旗保護法を可決。これは、判決の矛先を回避しつつ、国旗冒涜罪を連邦法として定めるものだった。しかし、19日、国旗冒涜罪に憲法の裏付けを与える議案は、51対48の賛成多数ながら、必要とされる三分の二に至らず、棄却された。
10月28日、国旗保護法が施行されると、短い間に十数個の都市で、抗議として旗を燃やす行動が起こされた。これは、一度に起きた同様の事件ではおそらく米史上最大のものだったという。そこで、再び法的闘争が開始され、1990年6月11日、連邦最高裁は「合衆国対アイヒマン」訴訟で、連邦国旗保護法を違憲として無効化した(再び5対4)。
ここには、権威あるものを焼き棄てにすることに対する強い拒否反応の一方で、言論や表現の自由、特に政治や体制を批判する自由は、権利の問題であって、快不快の感情で判断されるものではないという、頑質な信念を見ることができる。
しかし、国旗冒涜罪を合憲化する議案は、その後も繰り返し提出され、下院では毎回可決され、上院では必要数に満たないものの、通過しそうな際どい所まで来ている。
もしこの改憲が成立すると、国旗を燃やす行為は、非難されるべきであるかどうかの前に、まず違法であるということになる。そのために、国旗を燃やす自由が失われるだけでなく、これを非難する側が各々の立場から自由に意見を表明する権利も、事実上、失われることになるだろうと私は考える。
なぜこんなことを考えているかというと、日本国憲法における「日本国民統合の象徴」という表現って、きっとアメリカ人が星条旗になぞらえて近代天皇制を理解しようとしたことから出てきた言い方なんだろうとふと思い、そこから彼我の社会の差に考えが至ったからなのであった。
結語は特にないんだけど、これに関する Wikipedia(en) の項目:
- Flag desecration - Wikipedia
- Texas v. Johnson - Wikipedia
- United States v. Eichman - Wikipedia
- Flag Desecration Amendment - Wikipedia
これらにことごとく日本語版がないらしいということを付け加えておきたい。