左下顎水平埋伏智歯抜歯術血風録
2020年1月28日、私は左下の顎に埋まった親知らずに対する、開口時間一時間十二分に及ぶ抜歯手術を受けたのである。正式名称は「左下顎水平埋伏智歯抜歯術(分割抜歯)」である。
これまでのあらすじ
私は2014年10月に、右側上下二本の親知らずを抜く手術を受けた。一本目は右下、斜めに生え一部露出、歯肉の切開をし抜去、二本目は右上、露出しており単に抜くだけで、いずれの場合も想像したより受けるのは楽なもので、何だか分からない内に終わってしまい、術後に痛みや脹れが出た印象もないというものであった。
今回の抜歯顛末
三本目となる左下のものは、水平方向に生えて完全に埋まっており、神経の束が下顎を通っている所に接近しているという厄介な状態であった。初めにレントゲンだけを見た時には、入院して全身麻酔で抜くという線の話が医師からあり、CT 撮影をして詳しく見た所、何とか局所麻酔でも出来なくはないということで、選択を求められた。費用は局所麻酔なら五〜六千円に薬品代、入院=全身麻酔だとその十倍程度(ただその場合は残る左上のも同時に抜ける)だという。
さてここで考えたのは、全身麻酔だと眠ってしまうので、どんな手術だったかを後から書くことも出来ないということなのである。それに全身麻酔というのは万一のことがあれば命に関わる危険もありそうだ。局所麻酔なら口を開けているのは大変かもしれないが、後からネタに出来るのだ。‥‥なんてことはないこともないけれど、結局はお金の問題で局所麻酔をお願いしたのであった。
診察から約三週間後、時は来た。予約時間帯より三十分ほど早く受付を済ませた私には、まだ水の流れる所で黄金色の液体を捨てる余裕さえあったのである。診察室に呼び入れられたのも、確か予約時間帯より五分ほど早かった。
「体調は悪くないですか」
「いいですよ」
そんな会話の後、麻酔注射を打つ前の予備的な麻酔として、薬液を含ませたガーゼを噛まされた。この時点で、以前の抜歯とは違ったのだ。一本目の時でも、いつ麻酔をされたのかも分からないくらいで、「何か口の中でカチャカチャやっているな」と思っている内に終わっていたのであった。
椅子が倒されると、「目を保護するため」ということで、口の所に穴が開いたフワッとした布を顔に被せられた。鼻に持ち上げられてテント状になるので、目を落とすとその穴から外は見える。長い注射器がニュッと出てきて口に入る。歯肉だけではなく、舌の根の辺りにも刺される。先生がよく喋ってくれるので、今何をしているかも大体分かる。
歯肉が切り開かれ、顎の骨が削られる。うちは昔は金物店をやっていて、合鍵やアクリル板の名札などの作成をしていたので、ルーターのような電動工具の音は懐かしい。それでも口の中でギュンギュン鳴らされるとなかなかビビる響きだ。それはすぐに慣れる。歯が出てきて、これを切った割ったしながら取り除くのだが、そこで痛みが走る。歯の神経までは、麻酔が十分に効いていないのだ。
痛かったら左手を挙げるように言われているのだが、その前に体がビクッとしてしまうことが多い。それで先生は察してくれて「痛いですか」と聞かれるので小さくうなずく。追加の麻酔がニュッと出てきて口に入る。それを何度か繰り返した。
予め CT 撮影で立体像は確認できるとはいえ、実際の作業は手探りの部分が大きいようだ。肉を切り、骨を削っていった時に、歯のどの部分がどう見えてくるかは、先入観を持たずにやってみて確認するものらしい。歯の先端側が切り離されてしまうと、もうその方には神経が通っていないので、そこを取り除いている間は安心していられる。それが終わると根の側にかかる。こちらはまだ神経が繋がっているから、また痛みを感じる。何度麻酔を追加したのだろうか。
歯が全て取れると、ガーゼを入れて慎重に止血をする。これも何度か繰り返す。傷口を縫い合わせるのにも数本の糸を使い、閉じるとまた止血をする。全てが終わって、顔を覆う布が外され、再び口を閉じるまでに、およそ一時間十二分を要した。
歯は細かくいくつにも分割されたので、念の為に破片が中に残っていないかを確認するということで、レントゲン室との間を往復する。写真を見るときれいに、埋まっていた親不知は無くなっていることが分かった。小さい欠片になった歯を見せてくれた。人によっては持ち帰って保管したいというそうだ。
「保存するとすれば、どうしたら?」
「よく洗って、血が腐敗しやすいので。それで‥‥何かに入れるんですかねえ」
よく洗うというのが何だか物憂い気がしたので、処分してもらうことにした。最後にこれも念の為ということで、止血用にガーゼを噛まされ、一週間後に糸を抜く予約を決めて部屋を出たのであった。
精算をして、隣の処方箋薬局へ行くのに、何だか足が思うほど前に出ない。頬はもう腫れ始めていた。