日本語の語順について考える
日本語の語順の問題についてちょっと考えてみましょうか。ここでの関心は、語順についての、文章の訓練に役立つ理解の仕方、ということです。
文章を書こうとすると、言葉の並び方が何通りも考えられる場合があって、どうすれば「言いたいこと」に対して最も伝わる表現になるのか悩みます。決めるための基準を持つには、日本語の語順が持つ文法的働きを理解する必要がありそうなのです。
語順の不思議
学校では、英語は日本語とは「語順が違う」と教えられた憶えがあります。「私は本を読む」に対して「I read a book」だから「語順が違う」。でもこの説明は何となく腑に落ちない気がします。
中国語も基本的な語順は、英語と同じ「SVO 型」で、「我読書」のように並び、これは「我は書を読む」と読み下すことができます。もし「我書読」と顛倒すれば「我は読みものを書く」ことになって(そんな言い方がいつかの中国語にあるかはともかく)、文意が変わってしまうでしょう。それでも古典漢文で「我書是読」、現代語で「我書把看了」という言い方ならできると思いますけど、語順の文法的働きがあることによって、並べ替えには是や把の介助を必要とするわけでしょう。
では、日本語の場合はどうなるのか?
- 私は本を読む。
- 本を私は読む。
- 本を読む私は。
- 読む本を私は。
- 読む私は本を。
- 私は読む本を。
この六つが全く同じ意義を持つならば、日本語には「語順が無い」ことになりそうです。少なくとも大まかな意味は変わらないように受け取ることができます。動作主が私であり、対象が本であることは、は/をによって保証されています。動詞が動詞であることは、それ自体の形態によって保証されています。位置が自由にならないのは付属語だけであるかのように見えます。
三つ目以降は、落ち着きが悪いものの、許容とすべきか、破格と言うべきか、不可というほどではないでしょう。こう動詞を名詞の前に持ってくる場合は、「読むよ新聞を」「行くぜ京都へ」のように、所謂終助詞を挿入すると、何故か(?)まとまりが良くなるようです。漢詩の読み下しでなら、「我は読む書を」のように、詩情を優先して中国語の順序のままにする慣例が豊富にあります。また、このような構文では、形容詞が入る構文との関わりから、別の文意が取れてしまう場合も出てくるでしょう。日本語では(中国語、朝鮮語、アイヌ語などでも)動詞と形容詞は関係が深いからです。
それで、実際の作文上のほとんどの場合で、三以降は除外できるとして、問題は一、二つ目のような構文です。二つで済むのは例が単純な文だからであって、もっと複雑な文になれば(この文のように)、可能な順序の組み合わせは、もっと多くなるので、どう考えたら良いのさっていう話です。
そのどれでも文意がおよそ同じだって言うんなら、日本語の語順には文法的働きが無いか、非常に弱いということになるのでしょうか。ならば一体どうすれば日本語を「正しく書く」ことができるんでしょうか。
現代英語や中国語だったら、言いたいことが決まっていれば、もっとカチカチッと自動的にはまってくれるのではないかと、想像してしまうのです。しかしそれは「日本語は非文法的言語だ」ということなのではなく、私が(巻き込んで良ければ「我々が」)日本語の文法をより良く理解していないからだと考えてみたいのです。
次回に続く。