@kodakana_ship10
日本語のことを語る

い、が/の、は。それと「私は」と「私が」

日本語の主格の標示とセブンとローソンについてのあれこれです。

昔々、ある所に〈い〉という助詞がありました。

主語の格助詞としての働きがあることを認めたり、なかったり、副助詞としたり、辞書によって扱いが違うことがあったり、間投助詞としての条を立てたりもされる。他の助詞と連続して「いは」とか「いし」のような形でも使われた。分類はともかく、いくつかの働き方の一つに、少なくとも主語を「支える」性質も持っていたと見ておきます。

裸の母音が文節末に付くので、吸収乃至脱落が起きやすい。意識としては使っていても、発声されなかったり、表記されなかった場合も多いかと思われる。おそらく万葉歌の時期にはとっくに全盛を過ぎていて、平安京期にはほぼほぼ終息します。

〈い〉の跡地に、が/の、は、が進出を試みた、という想定で考えていきます。

が/の

〈が〉について、「私が本を読む」のような用法が確立するのはそれほど古くなく、「我が家」のような所有格が本業として良いでしょうか。所有格としては〈の〉との使い分けがかつてはあった。所有主を示す助詞なので、主格の位置に入りやすい。〈い〉が消えてゆくのを追って、その主格業の部分を中心に、跡地に入り込もうとする、と見てみます。言わば業務拡張で、イトーヨーカドーがセブンイレブンを生んだようなもの。

〈が〉の主格業が繁盛すると、所有格業は手薄に。セブンが主力になりヨーカドーは衰える。その面では〈の〉がもっぱらに使われるようになる。〈の〉も〈い〉の跡地の一部に入り込んで存在感を示してもいるようです。

〈は〉についても「私は本を読む」のような位置に使えるのは、〈い〉の跡地を埋めた、あるいは〈い〉を吸収した形として見たらどうでしょうか。しかし主格業の分野では業界一位の〈が〉に押しのけられて地位を確立できなかったか。かえって業態を多様化しているらしくもあるのは、ローソンがナチュラルローソンやローソンストア100を展開しているようなものか。

様々な助詞と手を組んで、には、をば、のは、といった形にはなるのに、がは、となりがたいのは、それだけ商売敵の怨みが深いからか。ローソンとセブンの溝は深い(?)。

その働きは、堤題、取り立て、限定、の係助詞/副助詞とか言われて、格助詞ではないと一般に認識されている。格助詞ではないけれども、主語を「支える」働きはしうるものとして見たい気がします。

「私は」と「私が」

そこで、

わたし本を読む」

と言っても話は通じるのだから、この構文で「私」は格助詞なしで主格を持っているわけでありましょう。

「私は本を読む」

と言った時に、〈は〉は格助詞ではないのだから、「私」に別の格が付わけはなく、「私〈主格〉+は〈副助詞〉」となるわけでしょうか。しかし〈は〉は「取り立て」とか言われる働きによって、「私」が主語であることを下支えしているとは言えるんじゃないでしょうか。

「私が本を読む」

と言ったって、これは結局〈が〉の本来の働きを応用して、「本を読む」を「私」に所属させているのだから、「私〈主格〉+が〈所有格助詞〉」という構成を分析できるので、〈が〉が主格を作っていると言うほどのことはなくて、やはり下支えをしているんじゃないでしょうか。

上のように考えて良ければ、〈が〉が主格の助詞になりかけているとしても、純然たるというか、本来的なそういったものは、日本語にないと言えましょうか(むしろ主格の標識を持つ言語は珍しいという)。

あるいは〈い〉が文献以前にはもっと明確に主格の標示として使われていたかもしれず、「私い本を読む」または「私いは〜」「私いが〜」という言い方をしうるものであったとすれば、現代語の中にも「透明な〈い〉」があって、無意識の内に省略して使っているのではないかとか、徒然なるままに考えたりする、春のぼた雪積もった夜の、次の日の晩なのであったのでした。