2020/1/18
最終出社まで1週間。今日も仕事の引き継ぎのために後任の翻訳者の訳文を校正していた。翻訳対象は、ジェンダーフルイディティを擁護するファッションブランドが新しいメンズコレクションを発表したことに関する記事。当然、コレクションのテーマはマスキュリニティを多元化すること。メンズウェアをまとってランウェイを闊歩するモデルたちの中に、男性ばかりでなく女性も、どっちかわからない人もいるうえに、ときどきこれはどう見てもウィメンズだよねっていうウェアも登場する。これはフェミニズムの視点に立つことが必須だなと思って後任者の訳文を見ると、パースペクティブがぜんぜん見えない。きわめつけは、Aという事実の指摘の文の訳がおかしいだけではなくて、接続詞whileが置かれてからBという表現の解説の文が続くのだが、それが対比のwhileであることが訳文に表現されていない。AとBはフェミニズムの視点に立つといわばイエローとパープルに見えるが、後任者にはオレンジとレッドくらいに見えているらしい。そこでフェミニズムについて尋ねた。「そういう考えを持つことは自由だと思います」と彼女は答えた。「かなり距離がある言い方ですね」と私は返した。「知らなくてもかまいません。私もよくは知りません。でも関心はありませんか。共感するところはありませんか」彼女は首を横に振った。「友だちの中にもそういうことを話す人はいません」私は少し考えてから言った。「いいでしょう、もちろんあなた自身のお考えはそれでかまいません。しかし私たちは翻訳者なので、いったんは翻訳対象の人そのものの側に立たなければいけません。例えば、言葉を話している人が” I” または ”we” と言ったら、その通訳者は『彼女は』『彼女たちは』とは言わずに自分自身から離れてその人になり変わり『私は』『私たちは』と言うでしょう。それと同じ、あるいは俳優と同じです。翻訳者はいわば『このライターが日本語を書くことができたら、こう書いていたのではないか』と考えながら、そのライターになりかわって日本語文を書くんです。その人になりかわるからには、たとえ内容が自分自身には同意できないことであっても、バックグラウンドを知っておくべきです。専門知識や経験はそのために不可欠ですが、それ以上に根本的に必要なのは関心または共感を持つことです。完全な他人ごとにはできないし、かといって完全な自分ごとにできると思い込むべきでもない。翻訳者がその間に立てず、どちらか片側にしか立てないなら、ライターが言いたいことは理解できないか、またはライターから話しかけられている人がどう思うかが分からないので、メッセージは伝えられないでしょう。だから……いえ、まだ知らなくていい、でも関心を持ってください」彼女はしばらくぽかんとしてから言った。「XX(私の名前)さんはこの最新コレクションの記事に共感するんですか?」「はい、たとえば私はメンズスカートを履いてみたいです」「ええっ?!」この目はよく見たことがある。人が均質な集団の中に危険な異分子を発見するときの目だ。単に私がいつもユニクロを着ているから、こんなダサいやつがと思われただけではない。「私はこんな体型だしお金もないから履かないだけです」それから私が話したことのどれくらいが彼女の記憶にとどまっただろうか。しかし四の五の言っていられない。あと1週間で私は彼女をスタートラインに立たせなければならないのだ。
日記のことを語る