id:sognante
日記のことを語る

2019/7/1
『君の名は。』は震災文学批判において絶対に看過できない作品だ。私は遅ればせながらゆうべ初めて観て、そのように強く認識した。本作においては、ある一個の地域共同体の破滅を回避する最終手段として、政治の力が登場する。ところがその最終手段を握る政治家を動かしたものは、政治的なものではまったくない。主人公2人は政治家の娘の身体で一度ずつ説得を試みるが、一度目は言葉でその政治家を動かせず暴力に訴えかけてしまう。このとき政治家は自らに語りかける相手の精神が娘本人ではないことを察知し、「誰だ」と問うている。二度目は言葉で政治家を動かしているはずだがその言葉そのものは描写されない。はっきりしているのは、今度は娘本人の精神が娘の身体に入っているということだけだ。したがって主人公が政治家を説得できた最大の理由は、言葉の内容ではなく、主人公が政治家の家族だったからだということになる。政治家は、本来の政治的原理である言葉の内容によってではなく、家族的原理によって行動し、村民のほとんどを無事に避難させるのだ。こうして、物語冒頭から(例えば建設業者との癒着などで)提示されている政治の機能不全は最後まで解消されることなく、物語は見せかけの円満解決へ至る。結果がすべてだと私は思わない。なぜならこの物語は、一度は破滅した運命を、当事者の入れ替えによって救い出す物語なのだから。もしも、破滅しなかった東京の人間の精神が、三年前に破滅してしまった地方の人間の身体に入っていけたら、という仮定に支えられているのだから。結果がよければ全てよいというのは、覆すことができない運命を受け入れるために、少しでもいいことを認めていくときに自らに言い聞かせる言葉だ。一方この物語は諦めが悪い物語なのであり、よくわからない奇跡で時空を歪めまでするのに、どうして破滅した人々を救う一方で腐敗した政治を正さないのか。この物語に感動した観客も、これで満足している作り手も、政治による救済を望みながら政治そのものを救済しようとせず、別の破滅へ向かっている私たちの現実をないがしろにしているのではないか。