2010年代なかばに実用化されたニューラル機械翻訳(NMT)は、それ以前の統計ベースの機械翻訳(SMT)に比べて、とくに英日翻訳では、確かに流暢さが飛躍的に向上しているが、そのぶん英文をきちんと読まなければ和文の誤りに気づきにくくなっている。
実際、以前とある新聞が大坂なおみ選手の発言をまったく逆の意味に和訳して報道したことで問題になったとき、私が試しに大坂選手のもとの発言(英文)をGoogle翻訳にかけてみたところ、その誤訳にかなり近い結果が得られた。おそらく英語に自信がない記者が記者会見場からいち早く記事を出そうとして、人間の翻訳者に依頼せずにGoogle翻訳にかけて、自然に見えるようにちょっと手直しして出してしまったのだろう。文意を全く逆に訳すことは、人間のプロの翻訳者であればまずない。NMTは、出力(訳文)の意味や解釈が入力(原文)と一致しているという判定をしないし、できないのだ。つまりNMTの進歩とは、翻訳者が不要になるほどではなく、英語を知らないかよく読まない者にはおかしさを見抜けないこともあるほどの仕上がりとなっただけである。
にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、翻訳者でない人がNMTの有効性を強調するとき、たいてい強調しすぎてしまう。実際にはNMTの出力は人間の翻訳者による編集(post-edit:PE)を必要とするし、しかも違和感なく読めるようにするには各文を文脈に応じてかなり調整しなければならないので、作業時間は人間翻訳(HT)に比べて期待されるほど短縮できない。
NMTの有効性を過剰に強調した主張がこれほど世にあふれることで、2つのことが起きる可能性がある。
1つは予言の自己成就。つまり皆が「すごい、翻訳者はいずれ不要になる」と言うので機械翻訳開発に投資する投資家が群がり、資金と高度人材が集まるので、結果機械翻訳が急速に進化するかもしれない。
もう1つは、これも別の形での予言の自己成就。セールスとクライアント間のコミュニケーションのなかで過剰な期待が抱かれることで、業界全体でPE案件(NMTの人間による編集)を軸にした過剰な低価格化が進み、それに適応できなかった翻訳者たちを廃業へ追い込んでいくということ。
翻訳者不要論によって生まれるこの2つの可能性のうち、どちらがより速く実現するかが翻訳の将来を決めることになりはしないか。つまり、機械翻訳が人間の翻訳者による編集を不要とするほど十分に発展するか、その前に十分な翻訳の技術と知識を持った人間が業界から離れてしまうかだ。
私は後者の実現のほうが速いのではないかと考えている。というのも、20世紀なかばから始まった機械翻訳の歴史を振り返ると、20~25年ごとに機械翻訳の質を飛躍的に向上させる技術革新が起きているが、そのようなパラダイムシフト同士の間の時期は枠組みの中で細かな進歩を重ねるだけに見える。直近のパラダイムシフトが2015年に起きたとすると、単純に考えて次は2035~2040年なのでは? 「いや今の開発速度はすごい、すぐに翻訳者は不要になる」という意見があるかもしれないが、機械翻訳の誕生時にも同じようなことが言われていたらしいので、今は違うというなら根拠をもっと具体的に知りたい。
かたや十分な知識と技術を備えた翻訳者はすでに減っている気がする。産業翻訳ではさまざまなテクノロジーのおかげで、誰でもどこでもというわけではないが、望めば多くの人が翻訳者になれる。案件数も増えている。なのに、一回り上の世代の翻訳者たちが持っていたものを、同世代で持っている人は少ない。
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