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日記のことを語る

2016/10/19

このごろ、政治や社会について憂う思いはどんどん増えていくにもかかわらず、語る気力はどんどん減っていく。何しろ語ってもむだだという気になってしまう。それはいまの政治状況のせいだ。議会で多数を占めさえすれば、何を言い、何をやってもいいという空気が蔓延している。
中谷元防衛相いわく「手榴弾も核兵器も武器ではなく弾薬である」
稲田朋美現防衛相いわく「南スーダンで市民数百人と中国軍兵士が殺害された事件は戦闘行為ではなく衝突である」
高市早苗総務相いわく「白紙領収証は法的に問題ない」
安倍晋三首相いわく「自民党は結党以来強行採決を考えたことはない」
次々に新解釈が登場し、それによってあるものはないことにされ、またあったことはなかったことにされていく。
なぜこのようなことが起きているのだろうか? その謎を解くための手がかりはいまやどこにでも転がっているが、もっともわかりやすい例を挙げておこう。安倍晋三首相は、南スーダンの大規模戦闘の解釈をめぐって、稲田朋美の「戦闘行為ではなく衝突」発言を擁護しながら、野党議員はそれを戦闘と呼ぶが自分たちはある勢力とある勢力のぶつかりあいだと考えていると述べた。まるで、「解釈は人それぞれですよね」と言って文学や映画についての話を終わらせようとするひとのようだ。
「解釈の多様性」というスローガンは、もともと、弱い根拠に基づく解釈や弱者の少数意見を押しつぶしてしまうことを避け、民主主義社会の前提となる意見の多様性を保証するために役立ったはずだ。しかしいまや、このスローガンを利用しているのは、少数の弱者ではなく、少数の政治的、経済的、社会的強者なのである。
こうして、強い権力を握った少数者が、自分勝手な解釈を覆されずに好きなだけ広めていくことができるようになったのだ。彼らいわく、日中戦争や太平洋戦争は、侵略戦争ではなく東アジアを欧米の植民地主義から守るという大義のための戦いだったという。彼らいわく、従軍慰安婦は、実在しなかったか強制ではなかったという。彼らいわく、幣原喜重郎によって提案された日本国憲法9条は、アメリカによって押し付けられたのだという。彼らいわく、今日もまったく手のつけようがない福島第一原発の事故は、すでに終息しているという。彼らいわく、2012年にTPP反対を掲げて衆院選に大勝した自民党は、一度もTPP反対だと言ったことがないという。彼らいわく、国際紛争の解決手段としての戦争を放棄することと陸海空軍その他の戦力を放棄することをうたっている日本国憲法第9条は、同盟諸国の戦争に協力することを禁止していないという。彼らいわく、核兵器も手榴弾も、武器ではなく弾薬だという。彼らいわく、自民党は、結党以来強行採決を考えたことはないという。彼らいわく、明らかに私たちの暮らしがどんどん苦しくなっていくいま、景気は、彼らのおかげで回復傾向にあるという。彼らいわく、一年間に何万人ものひとびとが自ら死ぬことを社会によって選択させられるこの日本は、世界に誇れるほど暮らしやすい国だという。すべて歴史的現実に反した解釈である。それが妄想でなければ何だというのか。もちろん妄想は自由だ。だが妄想で国を動かすことは亡国に他ならない。その妄想はいま安倍晋三の脳内から国会議事堂だけではなく新聞やネットや育鵬社の教科書にのって日本全国すみずみの老若男女に波及している。こうして、事実を受け止めて過ちを反省することなく、自己充足のポルノに浸って気持ちよくなったままでいて、どうやってものごとを改善し、「日本を前へ」進歩させるというのか。
私たちは、政治的にも、社会的にも、文化的にも、そして芸術的にも、リアリズムを回復しなければならない。新しいリアリズムはどうあるべきなのか。2011年からずっとそのことを考え続けている。