敬愛するミハイール・ガルバチョーフ同志の訃報に寄せて述べます。
同志が СССР の元首として活躍していた頃に、両国の事実上の国境に近い開拓地に住んでいた私にとって、日本のツマらない顔をした政治家よりも、同志は親しい隣人のように思える人でした。そのように同志は”西側”の諸国で非常に人気を博していました。経済の発展による明るい未来を見る一方で、核戦争による滅亡の恐れを感じていた人々には、待ち望んだ春が近付いているようでした。
しかし一国の指導者が、外国であんなにチヤホヤされるというのは、一体どういうものでしょうか。人が他国の政治家を好く思うときというのは、「あいつはこっちに都合の良いやつだ」とか、「都合の良いように利用してやろう〕といった意識が潜むものであるようです。ヒイキのヒキタオシのようなことをして、その国が悪いことになっても、責任を感じるような人なんか見たこともありません。
(「弔意」なんていうのも格好の道具でしょう?)
結局のところ口約束に基づく「冷戦の終結」というのは、米国のネオコン政治家のクチグルマにノせられただけではなかったのでしょうか。
”西側”の人々は”東側”の崩壊を資本主義の勝利として解釈し、その経済に内在する矛盾に対処することを忘れがちになり、平衡感覚をボリショいなほど失ったように思います。全体主義的社会主義体制が破綻したからといって、それで資本主義経済の問題が解決されたことにはならないのに――。
今世紀、ブッシュが嘘をついたとき、軍需産業の資本主義的な利潤の追求によって戦争が起こされるということを、人々は実際に見過ごしました。許した――無自覚にも――と言っても良いでしょう。
NATO の東方拡大ということも、政治家がもし安全保障だけでものを考えていれば――米国の軍需産業に市場を与えるという動機がなければ――どれだけ進みえたのでしょうか。”西側”では戦略さえ資本主義の掟のもとに置かれるに至ったようです。いっときの首脳同士の合意ほどのものでは守られるはずもありません。最後にそれはウクライナを危険な位置にすえたのです。
人類は二十世紀のうちにまず社会主義の明るい未来を亡くし、次には資本主義の明るい未来をも喪った今に生きなければならなくなりました。そんな我々を永遠に置き去りにして、同志は冷たいトコにツかれましたが、一体どんな夢を見て死後の無聊を慰めるおつもりなんですか。
もし死してなお霊あり、なにか言い返したいことでもあれば、墓場の底からボボーク、ボボーク、ボボーク! とでも音を立てられますように。私にはそれで解ります。