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日本語のことを語る

ここ数日、日本語の文法論について考えていたのである。人は眠っている間でも考えることができるもので、目がさめるととっちらかっていた考えがまとまっていることがある。これができると、ものを考えるために睡眠時間を減らさなくてすむのでよい。さて。

わたしもこの数年で言語学をちょっとはかじったので、文法についても学者の書いたものを読めば理屈はわかったつもりになる。されどわたしが欲しているのは、「こうなっている」というような観察的な文法論ではなくて、実際に文を書こうとするときに役立つような実用的な、「よりよく書く」ための文法論なのであった。実用文法には次のような条件が必要であると思う。

  • 全体としてすじのとおった体系性があること。
  • 書くための道具としてハサミのように扱いが容易であること。
  • 言語学的な専門の知識を前提とせずに会得できるような一般性があること。
  • 表現したいというきもちを文としての実現へとなめらかに導くものであること。
  • よりよい書き言葉をめざすような創造性を生めるものであること。
  • 効果的な訓練法を導き出せるようなものであること。

実用性のある文法論とはだいたい上のようなものと考えるわけなのであるけれども、この点でもちろん記述文法のようなものでは適合しない。学校文法のようなものは教育的かもしれないが、切れ味が全く足りない感じがする。生徒の安全のために、ハサミをプラスチック製にしてしまったようなものか。形はいいようでも、採点のしにくい問題は出さないようになっていて、肝心要のところが抜けてしまっているらしい。

文章の訓練といえば、大野晋の『日本語練習帳』というのは、1999年に発行された当時よく売れた本で、今でも売られている。大野さんというと橋本進吉による上代の八母音説をそっくり継承した人という印象がわたしには強く、ちょっと意外なのだけれども、この本では橋本文法に基く学校文法があまりよくないということを書いてある。それならどんな文法論なら教育的によいと思われるのか、さあ、となると答えがはっきりしない。文法論をほとんど避けたところで、この本がわかりやすく即効性がありそうに見えて売れたのかもしれない。

しかし文法論は文を書くための基礎体力を作るもので、基礎を抜かして応用の練習をしようではいけない。プロレスでいえば、基礎をきらって大技の練習をしたがるような選手では、試合の組み立てがまずくなる。作文は言葉の組み立てで、組み立てとは言葉を序列することだから、その並べ方の「適法性」を判断するために文法論が要ることになる。

つまり文を書くということは、まず言葉の並べ方を決めるということなので、語順についての理解なしには実用文法はできないことになる。語順については英語であれば、中学生向けの英和辞典の巻末に付いている程度の文法の解説でさえ、明快な理解がえられる。ところが日本語の語順は文法的にどんな働きをするものなのか、それと同じくらいの国語辞典の巻末をみてもわからない。

日本語の文法論には、幕末以降に西欧文法から大きく影響を受けたための混乱が、今もたしかにある。英語や仏語とは明らかに異なる日本語の語順は、西欧文法の枠組みでは全く理解することができない。それはたんに語順が違うのではなくて、語順がもつ働きが異なるということだ。日本語では語順によって、名詞が主語か目的語かといった位置付けが決まらないが、それでも語順が働いていないのではないということが説明できないと、実用文法にはならなかろうというものだ。

そして、語順の問題は、例の「主語」の問題と表裏一体をなしているので、三上章が主張したような、主語のない文法体系を採るのか、採らないのかということが同時に問題となるのである。

というところまで考えを整理しておいて、あとのことは他日を期したいと思う。ばいちょ。