実は、当 pulpdust.org はもともとジェンダーやセクシャリティに関する情報をたらたらと追いかけるウェブサイトとして始まったので(衝撃の事実?)、たまにはそのことについて書いておこうと思います。先日成立したいわゆる「LGBT理解増進法」のことですが、条文を詳しく読んだ上でないことは前提として置いておきます。
この法律、報道による印象では、細かい文言のことが審議で問題にされたような感じもありますが、わたしが思うのはそもそも「理解」というのは法律の問題なのかということです。なんでこんな法案が上がってきたのかというと、同性婚とかGID特例法の改善といった具体的な問題を扱いたくない権力家が多数派の地位を占めているので、「理解」という曖昧なところに逃げてきた(あるいは「転進」?)のでしょう。
性的指向や識別に対する理解とはいったいどんな面でのことをこの法律は想定しているのか全くわかりませんが、理解というのは内心の問題にも関わります。内心の自由は日本国憲法第十九条(思想、良心の自由)、二十条(信教の自由)で保護され、場合によっては二十一条(表現の自由)、二十三条(学問の自由)にも関わります。
内心の自由が法的に保護されるということは、たとえ何かについて不当な認識や憎悪、害意を持っていたとしても、それが法的には裁かれないことを意味するはずです。その思想が暴力、脅迫、名誉毀損や殺人の教唆などの形であらわれるときは、法的にはその行為が裁かれるだけでなければならない。これはもちろんその思想が法的な局面を離れてならば、倫理的なことなどで問題として扱われえないことは意味しないはずです。
正しいことだから内心に踏みこんでもよいというならば、その発想は宗教国家、啓蒙専制君主、単一政党制と本質的に異なりません。人類の歴史的経験から法は内心に関与しないという原則が立てられるようになってきたことをどうして軽んじて良いのでしょうか。
理解といっても、科学的客観的な事実の周知くらいのことを国がやるということなら悪くはないでしょうが、きっとそうではないんでしょう。政権の指導のもと、「どう理解するのが正解か」を官が決め、「理解したという態度」の御仕着せをするということになると、かえって理解できないという感情をこじらせる人が増えるでしょう。現にこじらせ屋がもう先取りをしてこじれを共有する活動を始めているようですから……。
こうなるとむしろ差別助長法であり、今まで理解をえるために当事者が払ってきた努力を踏みにじることにもなりかねません。
本当はこうではなく、理解があるか、あるいはどう理解されるかに関わらず、法の下の平等を保つためのことを、立法の問題としては扱うものであって、理解といったことは代議士としては専門外のこととして敬遠すべきなのだと思います。
ふりかえると平成十八年の新教育基本法(教育基本法:文部科学省)の際も、かなり内心の自由に触れる内容が盛りこまれたにも関わらず、その面での批判が強くなかったように思い出されます。政治家だけがおかしいとも言えません。旧法(昭和22年教育基本法制定時の条文:文部科学省)と読み比べてみて、日本がどのような方へ向かっているのか自覚する必要があると思います。