第十巻の冒頭に載せられた、柿本人麻呂の歌集から採ったという「霞」を詠み込んだ歌七首のうちの一つ。
原文:久方之天芳山此夕霞霏霺春立下
訓読:ヒサカタノ/あめの‐カグヤマ/こ‐の/ゆふ‐べ/かすみ/たなびく/はる/たつ‐らし‐も
解詞:ヒサカタノ(枕詞)/天の(美称)‐香具山(地名)/指示(近称)‐助詞(所属)/夕‐辺/霞/たなびく/春/立つ‐助動(相応)‐助詞(詠嘆)
意訳:久方の天の香具山にこの夕方、霞がかかっている。春の気が起こるのを表すようだね。
(1812)
この七首のうちの五つに「霞霏霺」という字があり、最後の一首には「霞多奈引」とあるので、「霏霺」は「たなびく」と訓むのだろうということになっています。この「霏霺」の漢語としての意味は「たなびく」というより「ちらちらする」というようなことであるとか、この字を使うことで簡単に言えないような感じを出そうとしたのではないかとか、原音の「フェイウェイ」というような響きも重ねる意図がなかったろうかということを、梅原猛/吉川幸次郎/小島憲之の御三方で論じた対談があって、『万葉を考える』という本に収録されています。
この当時は遣唐使があったり、朝鮮の戦役の際に日本に連れてこられた唐人が朝廷に仕えていたりとかもするので、文献の言語としてだけでなく、生きた中国語が宮廷には存外豊かに行われていたのではないかと想像します。