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勝手に引用のことを語る

よく経験することだが、小説の登場人物たちに私の過去の大切な思い出を与えてしまうと、突然押し込められた造りものの世界の中でその思い出はやせ細ってしまいがちだ。それは依然として頭の中に消えないでいるとはいえ、そのぬくもりや、思い返すときに感じる魅力は失われてしまい、芸術家に触れられることなど想像もできないように思えた以前の自分よりも、私の小説とぴったり重なっていく。往時の無声映画によく見られたように、家々は記憶の中で音もなく崩れてしまい、一度、ある作品の中で一人の少年に貸してやった年配のフランス人女性家庭教師の肖像は、見る見るかすんでいった。いまでは、私自身の少年時代とはまったく関係のない別の少年時代の描写に取り込まれてしまった。一人の人間たる私は小説家たる私に反撃を試みる。以下の物語は哀れなマドモワゼルから、まだ消えないでいるものを救い出そうとする、そんな必死の試みである。

ウラジーミル・ナボコフ「マドモワゼル・O」 諫早勇一訳