二項対立させること、それ自体は議論の導入部として、有意義だとは思います。
けれど、それが議論における「A案かB案か?」という検討に費やされていない。
参加者の「A派かB派か?」を分ける試金石になっていないか、かつ
一方が一方に「影響を与えたい」という意図は持ち得ないか、
といった配慮に欠けた場合、議論は奇異なもの、不毛なものになりかねない。
——という理解でよろしいでしょうか?
(すみません、アタクシ、お脳が虚弱なものですから、確認させてください)
「まあ、当たらずとも遠からずだよ」だったうえで、ですが。
たとえば、免罪符を想起するわけです。
「おまえは人間。ゆえに罪がある」→「買え」→よしよし、それで救われる。
この議論もそうだけど、「おまえは異性愛者。ゆえに罪がある」ではじまっているから
ここに議論の余地はないわけです。
だから、さまざまな軌道修正案が出るのは健康だと思うんだけど
「懺悔」と「戒告」という構図は、これまでずうーっと変わりません。
こういう場合、議論はどこへ帰着するのでしょうか?
ばかばかしい質問かもしれませんが、
ここの場にある可能性についてhizzzさんはどうお考えですか?
たとえば、これ。公開禁止になったベネトンの広告ですけど。
(このシリーズは実にかっこよかった、アタクシ的お宝画像)
06年、ミラノで駅の構内を利用して「タブーになった広告展」が開催されました。
その、タブーになった背景を考察する場として(だったかな)
少なくとも、このとき、一度張られた「タブー」というラベルは剥がされた。
一度ついてしまったという構図は、議論が継続するうえで不滅でしょうか?
あるいは、それが崩れるとしたら、どういう可能性が考えられますか?
異性愛者へ12の質問のことを語る