消費社会における若者の労働意欲
──記号的に職業を捉える若者たち──
(『BERD』13号/2008年7月より)
ところが今の学生は、この「感じる」こと自体が苦手なんですね。つまり自らの身体実感と照らし合わせながら、自分が就いた職業の中から、自分なりの達成感や満足感を感じ取る力が弱い。(...)感じる力がないと、職業選びは記号的なものにならざるを得ません。実感で選べないのだから、世の中にリストアップされている記号を参考にしながら選ぶしかない。(PAGE 2/5)
個性的でありたいけれど、それが「リスペクトに値する個性である」という社会的合意の存在する範囲でしか個性的であることが許されない。それが「自分らしさ」を記号的に表象する人間の陥る落とし穴です。(...)学生を連れて海外に行ったときにも、「身体を通して旅を経験する」という意識の薄さを感じます。レストランで食事が出ると、彼女たちは一斉にデジカメや携帯で料理を撮る。「撮るより、味わう方が大切だろう」と思うんですけど、彼女たちにとっては何を食べたかを細大漏らさず記録して、それをコンピュータに取り込んでいくことの方が、味わうことと同じくらい、場合によってはそれ以上に重要なんです。(PAGE 3/5)
若い人の記号解読リテラシーは非常に高くなっていると思います。記号が記号として成り立つためには、自分が記号的な振る舞いをしているときに、それを周りの人たちが認知してくれることが必要です。「記号解読共同体」のようなものがなければ、記号は記号として通用しません。
ファッション誌はそのためのものですね。(...)彼女たちにとっては「身体的な不快さの除去」は「記号としての有意性の保持」よりも後回しなんです。体感よりも記号が選択されている。(PAGE 4/5)
消費文化の進行と共に、置き去りにされてきたのが身体性です。記号的な職業選択では、脳は快楽を得るかもしれないけれど、身体は満足しません。(...)大切なのは、身体を通して仕事をイメージすることです。僕は学生たちに対して「自分が30歳になったときに、どんなオフィスで、どんな服を着て、どんな人たちと、どんな感じで働いているか」を想像させてみます。この想像では記号性よりも身体実感の方に軸足を置きます。(...)そのようなイメージを長い時間をかけて細部まで練り上げておくと、就職活動で職場訪問をしたときでも、「ここの職場は私が想像していたところに似ている」ということが身体的実感として分かる。(...)職業調べをさせたり、適性・適職探しをさせるのではなく、身体性を通して労働の喜びを伝えることが、若者が労働意欲を持つことにつながるのではないでしょうか。(PAGE 5/5)
内田樹のことを語る