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勝手に引用のことを語る

 森が飛ぶように、青年に近づいていった。
「飯、ちゃんと食うとるか? 風呂入らなあかんで。爪と髪切りや、歯も時々磨き」
 機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。
 髪も髭も伸び放題、風呂も入らん、歯も滅多に磨かない師匠は「手出し」と次の命令を下す。青年はおずおずと森に向けて手を差し伸べた。その手を森はやさしくさすりはじめた。そして「まあまあやなあ」と言った。すると、青年は何も言わずにもう一方の手を差し出すのだった。
 大阪の凍りつくような、真冬の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。それは、人間というよりもむしろ犬の親子のような愛情の交換だった。
(中略)
「この人大崎さんや、ほっぺたさわってもらい」と森は言った。私は何のためらいもなく手を伸ばした。そのほっぺたは柔らかくそして温かかった。
「早よ帰って、寝や」と森が言うと、「はあ」と消え入るようなような声で青年は呟いた。そして体を傾け、とぼとぼと一歩一歩むりやり足を差し出すようにしながら夜の帳へ消えていった。
大崎善生『聖の青春』講談社、2000、p146。