…日本史研究では(中略)どのような方法に軸足をおく研究者でも、体制的・中心的なものの外にあって、これまで見すごされがちであった各分野におけるマージナルなもの、マイノリティーを重視するようになった。琉球―沖縄史、アイヌ・蝦夷地―北海道史の研究が本格化し、女性史研究や被差別民の歴史研究が、飛躍的に進展した。(中略)白拍子や鵜飼など政治史中心の歴史学では思いもよらなかった”微小・底辺”の存在の意味を問いただそうという見方が提出された。総括すれば「新しい歴史学」としての社会史であり、民主主義的視角からの歴史認識の深化の方向である。――永原慶二『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館、二〇〇三年、三一三頁。
うーん、なんで「民主主義の視角」に全部を還元しようとしちゃうのかなー。そういう「大雑把さ」というか「民主主義至上主義」が永原さんとかのいわゆる「戦後歴史学」の特徴なんだろうけど。
そのことは「民主主義」と矛盾する「上から目線」につながると思うんだけど。「これまで見すご」してきたのは誰? 通時的に同質な「歴史研究」なんてものが存在しない以上、「これまで見すご」してきた流れと、一定以上断絶したところから琉球・アイヌ・女性史・被差別民・非常民研究が生まれたんだと思う。これらを「マージナルなもの、マイノリティー」「微小・底辺」としてきたのは誰? それは「体制・中心」というマジョリティであって、マイノリティ自身ではない。マイノリティ自身にとっては、彼ら自身が彼らのあり方の主役・中心だった。
特に女性史研究は歴史学全体に貢献しようとして発展したわけではない。女性史研究は現実の女性(に限らない、性に関する差別に異議を唱える人々など)のために行われるものであって、歴史学全体のため(歴史学全体の発展・多様性に貢献するため)に行われるものではない。結果として歴史学全体の発展・多様性に貢献したかもしれないけど、それは第一義的な目的ではない(もちろん、「歴史学全体の発展・多様性に貢献できるから女性史研究は重要ですよ」と主張することは政治的に有効であればアリなことではあると思うが)。
歴史学という政治のことを語る