カラクスに着くやいなや、疲れきった皇帝はペルシア湾の重い水の広がりに向かって、砂浜に腰をおろした。それはまだ彼が勝利を信じて疑わなかったころであったけれども、しかしはじめて世界の茫大さが彼を圧倒し、また、老齢の感懐、われわれ皆を取り囲む限界の感情が彼をおしひしいだのであった。よもや泣くことがあろうとはだれも思いもよらぬこの人の皺寄った頬に大粒の涙が流れた。これまで踏破したことのないかずかずの岸辺にローマの鷲を持ち込んだこの将軍は、あれほど夢みたこの海に船出することはけっしてないであろうと、いま悟ったのだ。インディア、バクトリア、彼がはるかに憧れていた蒙い東洋全体が、彼にとってはどこまでもただの名前と夢とにすぎぬものとなるであろう。
マルグリット・ユルスナール、多田智満子訳『ハドリアヌス帝の回想』白水社、2008、p98。
勝手に引用のことを語る