『美女と野獣』の野獣は自分の行いの結果として野獣になったから自分の存在に葛藤がある。
『シェイプ・オブ・ウォーター』の彼は元々の彼のまま知らない世界に連れてこられたわけで、野獣と違って戻りたい本来の自分の姿があるわけではないから野獣のような葛藤はない。当たり前の話。
だからデルトロ版『美女と野獣』ってたとえは私にはしっくりこないな。そうたとえている人は『美女と野獣』について、結局人は見た目じゃないって言ってもベルは美女であるとか、最後は「美しい王子様」にならないといけないの?ってところにひっかかるから、異形のものが人間にならずそのままの姿で愛を得る点でそうたとえているのだと思うけど、野獣と半漁人君では命題がそもそも違うなと。
半漁人君は自分の存在には葛藤しないけど自分が連れてこられた世界の在り様には戸惑う。それが例の猫のシーン。
でも世界と自分の間にイライザがいて、すべてを受け止めてくれる。猫の件の後半漁人君の前に立ったイライザは、たとえ自分が猫と同じ目に遭っても構わないと思っているように見えた。あのシーンのサリー・ホーキンスの佇まいの説得力素晴らしかったな。だからあの猫のシーンは必要なシーンではある。でもきつい。
穴の塞がったえむぞうのことを語る