吉舎の次は再度三次へ戻って三江線に乗り換え、石見方面へ向かいました。
三江線は別名「中国太郎」とも呼ばれる江の川(ごうのかわ)に沿って、日本海まで続く路線です。
江の川といえば尼子ファン的には1540年、尼子国久率いる新宮党の精鋭が吉田郡山城攻めの尖兵として侵攻した際、五龍城主・宍戸隆家と大叔父の祝屋城主・深瀬隆兼によって阻まれ、渡河を果たせなかったことなどに思いを馳せつつ…。
石見川本では乗り継ぎ1時間待ちの間に昼食を取り、次の目的地・温泉津まで5時間半の行程でした。
(三江線の旅については青春18きっぷに記事を投稿しています。その1 その2 その3)
温泉津湾沖泊より。温泉津は当時世界有数の産出量を誇った大森銀山の外港で、大内氏と尼子氏、後には尼子氏と毛利氏による銀山争奪戦が続いたこともあり、元就に関わる史跡が残されています。
左側の丘陵は鵜丸城址、1569年に尼子勝久を擁する尼子再興軍が出雲入国を果たした際、毛利水軍の拠点として内藤内蔵丞に命じて築かせた城砦。
対岸右側の丘陵は櫛山城址、1562年の毛利氏による大森銀山奪還の際、山吹城主・本城常光が調略により降伏した後も、尼子方として最後まで抵抗した温泉氏の居城といわれています。
運搬船の係留索を通したという岩の跡。
沖泊には、このように岩に穴を開けた「鼻ぐり岩」や、岩を削って円柱状に加工した「臼石」などが多数残されています。
こちらは内藤家庄屋屋敷。蔵に「内」の文字が見えます。
櫛山城を築きその奉行となった内藤内蔵丞の子孫は、毛利氏が関ヶ原の敗戦により大森銀山を失った後も温泉津に残って土着し、代々年寄や庄屋を務めたそうです。
史跡巡り同好会のことを語る