郡山城周辺の史跡を一通り回った頃には、すでに17時を過ぎ資料館も閉館していました。
元就が青年期までを過ごした多治比猿掛城跡も見ておきたかったのですが、3,4kmくらい離れた場所にあるので断念…。
郡山城の麓にある清神社。
京都祇園社の荘園吉田荘の鎮守として毛利氏代々の崇敬を受けたことで知られ、元就、隆元、輝元の棟札も残っています。(吉田歴史民俗資料館に展示)
清神社境内には、石見の有力国人・高橋氏の出身で、元就の父・毛利弘元の継室であった「杉大方」を祀る「椙若社」があります。
元就は後に子息に宛てた書状の中で、幼くして両親を失い、兄・興元は大内義興に従って京に上り、父の遺領は重臣の井上元盛に横取りされるという苦境の中、実家に帰らず再婚もせず自分を養育してくれた、大方への感謝を綴っています。
ちなみに現在の社殿は、元就生誕500年と大河ドラマ放映を記念して、平成9年に有志により再建されたものだそうです。
猿掛城攻めは断念したものの、ぜひお参りしておきたかったのがこの墓。
自然石による素朴な墓ですが、1541年に尼子詮久が総勢3万の兵をもって来攻した際、陶隆房(後の晴賢)率いる大内氏援軍との交戦で敗死した、尼子久幸の墓と伝えられています。
こちらも郡山城からは3kmくらい離れていましたが、実は私、大内・尼子・毛利の中では断然尼子贔屓、中でも尼子久幸がお気に入りなので、毛利氏史跡巡りといいつつ密かにこの墓が本命くらいの勢いでした。
これにて2日目の史跡巡りは終了です。
史跡巡り同好会のことを語る