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史跡巡り同好会のことを語る

富田松山城址の続き。

本丸跡はこんな感じで山城にしては結構広く削平されてます。

城主から歓迎のお言葉が。
国秀は、浦上家当主の村宗が両細川家の乱で高国方の援軍として摂津に出兵し、主筋の赤松軍の寝返りによって敗死した(大物崩れ)後、嫡子の政宗が成人するまでの約10年間、当主を代行したという人物です。

山麓には浦上家の墓所がありました。こちらは元禄年間から現在まで続いてる家だそうですが、国秀との関係は分かりません。