安波賀春日神社の社殿です。
長禄合戦で守護方の堀江氏の軍勢が一乗谷に攻め寄せた際、安波賀城戸口の戦闘で社殿は焼失したものの、後に孝景によって再興、以来朝倉氏の戦勝祈願所となりました。
朝倉氏滅亡の際に再び社殿焼失、神官の吉田氏は御神体を奉じて江戸へ逃れ、更に時代を下って越前松平家七代に至って、現社殿を再建されたそうです。
その七代藩主松平吉品は、これまでの藩主にたびたび不幸が続いたこともあり、朝倉氏滅亡時に残したと伝えられる「以後越前の国主たる者には子々孫々に至るまで祟るべし」との怨み言を気にかけて、滝殿社を造営して朝倉氏を祀り、義景常用の馬具の一部を埋蔵したとか。
(ちなみに初代秀康は若くして病死、二代忠直は乱行により配流、四代光通は自殺、六代綱昌は発狂により蟄居)
下城戸は最も狭まった谷の入口にあり、食い違いに築かれた土塁と濠によって構成された堅固な防御施設だったようです。
この安波賀城戸口で、京都から帰国途中の孝景に代わって祖父の心月教景が指揮を執り、守護方の軍勢を撃退しました。
ここから1.7km上流にある上城戸との間が「城戸ノ内」と呼ばれる一乗谷の中心区画で、谷内には城主と一族の居館や重臣の屋敷を始め、寺院や職人・商人が住む町屋がありました。
英林塚はその名の通り、英林孝景の墓所です。ここは今回訪れた重要な目的地の一つでした。
中には「當國前太守朝倉七代敏景公廟所修繕御寄附 侯爵松平○○」と刻まれた支柱もあり、印象深かったです。
英林は教景→敏景→教景→孝景と改名したので、かつては十代の宗淳孝景と区別するため「敏景」と呼ばれることが多かったのですが(戦国期最初の分国法「朝倉敏景十七箇条」は有名ですよね)、真新しい木札に「初代 孝景公墓所」と記されている通り、現在は孝景と呼ばれます。
(ちなみに敏景の名は越前守護でかつての主君、斯波義敏の偏諱)
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