ちょうど先日「安芸の夜長の暇語り」で宇喜多の浦上離反から備中兵乱までの記事が上がってました。
織田と毛利の入魂~信長「元春兄貴、頼みます!」~からの備中兵乱」
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-633.html
年次不明ですが、四月五日付で信長から吉川元春に宛て、毛利と浦上・宇喜多の和睦あるいは浦上と宇喜多の和睦への協力を要請する内容とのこと。
篠原長房率いる讃岐衆が参戦した児島合戦の翌年、信長が将軍の意を受けて毛利、浦上、宇喜多の和睦を周旋したという、元亀3年のものでしょうか。
大門先生の『備前 浦上氏』を確認したところ、宇喜多は毛利との和平に乗り気だったものの、浦上は毛利方となっていた後藤氏の三星城を攻撃していて、9月下旬まで戦闘は継続していたとのこと。一方の宇喜多直家は天正元年12月に恵瓊と面会していて、翌天正2年3月には宗景と決別。
『尼子氏と戦国時代の鳥取』で山陰の情勢を確認すると、鹿介は元亀3年中には美作三浦氏の重臣・牧兵庫助尚春、能島の村上武吉らと連絡を取りつつ但馬に潜伏、毛利方の鳥取城主・武田高信は浦上攻略支援のため美作へ向かうも10月の和睦成立で帰城、翌天正元年春に謀殺される。そして6月に山名氏の支援を受ける鹿介らが因幡へ侵攻、尼子勝久も隠岐から合流、9月下旬には鳥取城を降伏させ山名豊国が入城。しかしそれも束の間、吉川元春の進軍を受けて11月下旬には豊国が毛利方へ寝返り。
なお12月12日の恵瓊書状によると、鹿介は柴田勝家と連絡を取り、但馬の国人は半分が秀吉に通じているとのこと。
(すでに永禄12年には秀吉が但馬へ侵攻して生野銀山を制圧してますが、これは毛利元就の要請に応じた動きなので、織田の但馬進出は了承済みのはず)
神田氏は浦上・宇喜多の衝突で生じた境目争いを最大の原因としていますが、反毛利という意味では何より尼子再興軍の動きは無視できないでしょうし、三浦氏再興のため浦上と尼子の両者と連携する牧兵庫助の動きも目立ちます。天正2年に三村氏を毛利包囲網に引き入れたのもこの人。鹿介とともに前線における反毛利方の重要人物だったようです。