でもちょうどその頃、織田の方でも因幡で毛利と交戦していた尼子再興軍を支援しているのでお互い様…というか、この本では尼子再興軍の動向にあまり触れられてませんが、山中鹿介が浦上方となった三浦氏を支援して美作高田城で宇喜多軍と交戦してますので、備中兵乱の時点ですでに織田と毛利の代理戦争的な状況になっていたのでしょうね。
なお備中兵乱決着後、天神山城を落とされた宗景は小寺政職の元に逃れ、荒木村重の後援を得て宇喜多氏から端城を奪還して入城していますが、その後の動きは史料からはよく分かっていないようです。
毛利と織田が引き続き天正4年まで表面上は交誼を重ねているのは、両者とも落とし所を探っていたものでしょうか。毛利側には織田と対決に至った場合の想定が書状に残っていますが、その中ですでに宇喜多の裏切りを心配している様子が窺えます。そこへ将軍義昭が押しかけた。前年10月以来信長と和睦していた本願寺も、その頃には毛利と頻繁に書状を交わしています。
年次不詳ですが、籠城中の顕如から英賀惣中に宛てて五月二十四日付で「公儀御出張之儀、毛利家をはしめ、中国之諸士、宇喜多、御請被申候、急速可有進発と云々、海上警固之儀、其外手筈等、当寺へ毛利家より、被申越候、一段しかるへき味方と珍重候」との書状が出されています。
「公儀御出張之儀」の解釈から将軍の下向前という説、籠城の切羽詰った感じから石山合戦末期という説もあるようですが…。