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ホリィ(新人)のことを語る

この永禄11年の「信長上洛戦」とされている戦いですが、以前は三好氏のあまりの急な崩壊ぶりを疑問に感じてましたが、細川京兆家が分裂して京都を取り合い続けていた状況を学んでからは、捉え方が変わってきました。
この上洛も言わば大内義興を引き入れた細川高国が足利義稙を奉じたものと変わらない、というか勢力的にはそれよりも小さく受け止められた出来事だったに違いないし(大内の場合は応仁の乱がありましたが、信長はそこまで脅威とは見られなかったはず)、三好氏がろくに戦わず退いたのは負け惜しみではなく、明らかに「戦略的撤退」というものでしょう。
元々三好氏の本拠地は阿波ですし、東瀬戸内を掌握していた三好氏は過去にそういう戦略で、久米田の戦いで畠山氏に惨敗し六角氏にも京都制圧を許した後、各地の軍勢を集結させて教興寺の戦いに勝利しています。

「信長に降伏」した畿内の諸将にしても、形勢次第でどう転ぶか分かりません。
三好氏がその後もついに畿内に復帰できなかったのは、やはり義昭が将軍として健在したのに対して義栄が病死したこと、三好宗家の義継が義昭との縁組によって幕府に取り込まれてしまったことが大きいんじゃないかなと。
本圀寺の変の顛末を見ると、そう思います。