結論の妥当性はまだ僕には判断できませんが、将軍義昭との決裂後も各地に軍を派遣しているのはどういう事なのかというと、諸大名との共存を前提としつつ天下人として大名間の紛争解決を図った結果で、いずれも信長から仕掛けたものではないとしています。要はこれまで将軍が果たしてきた役割を引き継いだというのです。
たとえば毛利氏との関係の変化については、そもそも信長が播磨方面に進出したのは大友を中心とした包囲網に手を焼いた毛利氏の要請を受けたことによるものでしたが、すでに義昭との関係が悪化していた元亀3年10月に毛利、浦上、宇喜多の三者が幕府の調停を受けて和睦、さらに天正元年末頃にも信長が浦上宗景に「備播作之朱印」を与えたことを毛利が了承していることをもって、義昭を京都から追放した後でも三者の和睦は継続していたとしています。
それが、天正2年3月に宇喜多が浦上と断交して毛利を頼ったため、織田方と毛利方の間に境目争いが生じ、これに反毛利方も絡んで対立が加速してしまったというわけです。
確かに両者とも対決を避けようとしていたのは事実だし、毛利も当初は義昭の信長討伐要請に耳を貸さないばかりか、信長と和睦して京都に帰るよう働きかけてます。最終的には毛利領には来ないとの言質を取って匙を投げた末に、状況も変わって押しかけられる形になりましたが…。
書状の文面を素直に解釈しすぎではという疑問もありますが、かと言って、拡大政策を取る信長にとって毛利との衝突は必然、と見るのも早計かもしれないなと。