かなり流し読みですが一巡目読了しました。
正親町天皇との関係として、天皇の譲位を持ちだした件については、その時期が天正元年末という点で、京都を離れて将軍としての役割を果たせなくなった義昭に代わって譲位の儀を行おうとしたのではと指摘されていて、説得力があります。(後土御門天皇以降、財政難のため望んでも存命中の譲位が叶わない状況が続いていたわけで、信長が天皇に廃位を迫ったとかそういう話ではないです、念のため)
天正6年4月に官位を辞職した件は、本人が嫡子信忠への譲位を希望している以上、単純に年齢的な理由から政治的地位を引き継ぎたかったのだろうと推察されています。(わざわざ自身が辞職した理由を考えると、これも外聞を慮ってのことではないかと思えてきます。あるいは、三好氏と同じ轍を踏むまいと考えたのかもしれません)
天正10年5月の三職推任については、関東を討ち果たした功績により将軍に任官したいという勧修寺晴豊の説明に対して、信長が勅使にすぐに会わなかったことや晴豊が信長の回答を伝えたとだけ書き記していることから見て、将軍の義昭が存命している以上これを受け入れがたいと考え辞退したのではないかとのこと。
この辺り、谷口克広氏の『信長と将軍義昭』と比較しながら読むと面白いです。
信長が外聞をかなり気にする人物であったという評価は同じですが、将軍が京都から没落した時点で事実上の幕府滅亡とする谷口氏と、信長は将軍の立場を尊重しつつそれに代わる天下人であろうとしたと評価する神田氏の違いが現れています。