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ホリィ(新人)のことを語る

官兵衛の先見の明がどうとか言われてますが、小寺氏の信長方への降伏は実際にはかなり遅いです。そもそも織田と毛利の敵対はずっと後です。

石山合戦の勃発は元亀元年(1570)9月、三好勢の摂津上陸に呼応しての挙兵でした。英賀の史料ではこの時に英賀城主・三木通秋も顕如の檄文に応じて参戦したと伝わっていて、もちろんこの間も小寺氏は反信長方です。
信長が将軍義昭と完全に決裂したのが元亀4年(1573)2月、7月に天正改元、義昭が槇島城で敗北して京都を追われ、いわゆる信長包囲網はこの年に各個撃破されてほぼ瓦解、11月には本願寺も一旦講和してます。
義昭はこの間にも毛利氏に味方につくよう御内書を送ってますが、毛利さん華麗にスルー。

天正元年は大きな動きがあって、三好氏を反信長で牽引してきた篠原長房が誅伐され、朝倉と浅井が滅亡、三好義継が滅亡(松永久秀は降伏)。浦上宗景も別所長治とともに上洛して和睦を命じられ「備播作之朱印」を与えられてますが、まだ小寺と赤松惣領家は反信長です。
この年に官兵衛の父・職隆が妻鹿城(国府山城)に進出していますが、おそらく海上ルート確保のためでしょう。4月頃には小寺氏は別所氏と「印南野合戦」で交戦、そして本願寺も義昭の要請に応じて翌天正2年4月に再び挙兵、5月には赤松則房・小寺連合軍が置塩城に攻め寄せた別所軍を撃退してます。

天正3年(1575)10月に小寺政職は赤松広英、別所長治、浦上宗景(織田から毛利に鞍替えした宇喜多直家によりすでに没落)らと共に信長に謁見していて、ようやく降参したようです。これは同月21日の本願寺と信長の和睦に連動した動きとも思えます。またこの年には長島と越前の一揆も殲滅されてます。

その間ずっと紀州由良に滞在して信長討伐をけしかけ続けていた義昭が、強引に毛利氏の元に押しかけたのが天正4年(1576)2月。そして3月、まだ信長に降参して間もない小寺氏が掌を返して英賀を攻めたとすると、その決断の早さにびっくりです。