「安芸の夜長の暇語り」でこのところ小早川家文書を解析されてて興味深く読ませてもらってますが、織田と毛利の決定的対立に至るまでの流れが面白いことになってます。
織田と毛利の入魂~秀吉の裏切り?~『英賀合戦?何のことです?』
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前年に信長は一旦本願寺と和睦して、正月時点ではまだ年初の贈り物のやり取りなど行っていた天正4年4月の話ですが、秀吉から隆景へ「英賀の儀未だ申し聞かず候。後便に必ず信長存分申し入るべく候 両人おいては疎意あるべからず候」と英賀で何かあったことを窺わせる書状の後、本願寺攻めが再開され、7月には毛利水軍による本願寺への救援(第1次木津川口の合戦)が行われるという流れ。
この間に黒田家譜では天正四年のこととして、五月十六日付の信長から荒木村重宛の書状で小寺氏と官兵衛による英賀合戦での働きについて触れられているわけですが、「一昨十四日小寺自身英賀面至り相働き」というのは3月14日という意味のようで。
これまで、天正5年3月頃から宇喜多氏と共同で播磨への侵攻作戦を展開していることから、この書状の内容は天正5年5月14日のことと解釈され、黒田家譜の誤記だろうと言われてきましたが、そうではない可能性があるというわけです。