常設展示品の中には、いくつか細川・三好関連の文書もありました。
由佐家文書から、応仁元年七月廿日付、由佐次郎右衛門尉宛て細川勝元感状(室町合戦)
秋山家文書から、年次不詳七月廿四日付、秋山源太郎宛て細川澄元感状(櫛無山の合戦)
由佐家文書から、八月十九日付、油座平右衛門尉宛て三好義堅書状
澄元期の「櫛無山の合戦」に関してはWebで検索しても全く情報がないのですが、宇多津の聖通寺城を本拠地とする奈良氏の出城として、櫛無山城(櫛梨城)という城があり、後の「讃岐本吉合戦」の舞台とも言われているようです。
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-113.html
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-114.html
「三好義堅」は十河存保が一時名乗ったものですが、天野先生の長慶本を確認したところ「三好孫六郎存康(天正二年八月)」→「孫六郎存保(天正十一年二月)」→「義堅(天正十一年八月)」→「十川孫六郎(天正十三年八月)」とあり、この書状が根拠なのかもしれません。
あと香西氏(勝賀城)、安富氏(雨滝城)、奈良氏(聖通寺城)、香川氏(天霧城)の「細川四天王」にも言及されていて、この四氏に十河氏(十河城)、寒川氏(昼寝城)を加えて「有力武将」としていました。(詳しい経歴は書かれていませんでしたが…)
十河城の本丸跡には「称念寺」という寺が建っていて、十河一存と存保の墓があり、近くには十河歴史資料館もあるようです。いつか行けるかな。