id:k-holy
ホリィ(新人)のことを語る

津野倫明氏の『人をあるく 長宗我部元親と四国』にもあった通り、讃岐の虎丸城は阿波の土佐泊城とともに秀吉の来援まで持ち堪えたという説が出ています。(今ちょうど漫画「センゴク」でやってる辺り)
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/316616235317113901

心情的にはそれを支持したいところですが、今回の展示解説によれば、虎丸城では北側のみに畝状竪堀群が構築された形跡があって、海側からの敵のみが想定されていると見られるそうです。
(虎丸城の非落城説の存在自体を認識されていないのかもしれませんが、すでに長宗我部氏によって制圧された後の遺構という前提で話されていました。)

あと興味深かったのは引田城の遺構で、野面積みの低い石垣と、打込み接ぎが用いられた高い石垣がそれぞれ残っていて、前者が長宗我部氏が築いたもので、後者が生駒親正あるいは仙石秀久の時代のものと見られるようです。
また、勝賀城の遺構には「食い違い虎口」や土塁の「折れ」など近世的な城郭の技術も見られるそうです。

讃岐の山城は詰城ではなく生活の場でもあったことが出土品からも窺えるそうなので(唐物の青花なども出ているそうです)、同時期に改造されたと見られる他の城も合わせて、今後の調査で「一国一城令」以前の経緯が判明すれば、自然と長宗我部氏「四国統一」の実態も明かされるんじゃないかなと。
個人的にはその辺が今回の注目ポイントでした。