永正11年2月13日『鵤庄引付』でしょうか。図録を確認したところ翻刻文も掲載されてました。(読み飛ばしてたようです…)
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永正十一年甲戌二月十三日、東保村仁在之一向宗念佛道場、任庄例検断畢、同坊主次郎左衛門家検断之、同時平方奥村次郎衛門道場検断、惣て当国一向宗京都ヨリ依御成敗、如此在々所々堅糺明在之、然間当庄モ往古ヨリ堅禁制之在所、及数度成敗之間、東保之道場悉以打破、資材以下迄政所ヘ検断畢、其後小寺加賀守方ヘ付テ種々詫言申間、役人以下内儀相意得候ニテ、坊主次郎さ衛門地下之安堵ヲハ令許可畢、
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この小寺加賀守は村職の父の則職、永正17年に浦上村宗と交戦して敗死した人ということでいいんでしょうか。
蓮如の吉崎進出は文明3年ですが、手元にある笠原一男著『一向一揆』によると、それ以前にも加賀には本願寺三世覚如の時代に弘願寺、また六世巧如の時代に本泉寺といった真宗道場がすでに根付いていたとあります。確かに、小寺氏の加賀進出にあたって接触があってもおかしくありませんね。