「網干郷文書」から秀吉の播磨侵攻に対応した動きが分かるものがいくつか収録されてました。
播磨門徒は教如派が多数を占めていて、亀山本徳寺と池田輝政の間がこじれて喧嘩になるわけですが、英賀本徳寺に入った実円が三河土呂本宗寺の住職を兼任していて、後に池田氏に代わって本多氏による東派の再興に繋がったとのこと。
船場本徳寺が旧池田家臣の屋敷跡に建てられたというのがまた象徴的で面白いなぁと。
本徳寺の東西分裂は旧英賀城主三木氏の足取りも合わせて調べてみたいところです。山崎山にあった三木一族の墓地が、亀山本徳寺の西山御廟建立に際して英賀に移されたという話もあったので。
あと荒木村重の重臣から秀吉の奉行になって後に木下平太夫を名乗ったという、荒木重堅が気になりました。
長水城の宇野祐清を討ったのはこの人のようです。「戦え!官兵衛くん。」にも名前は出てました。
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因幡攻めで若桜鬼ヶ城を与えられて、関ヶ原合戦では西軍として伏見城、大津城で戦ったようですが、若桜鬼ヶ城は亀井茲矩に接収されたとも。(Wikipedia情報)亀井、またお前かー!!