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ホリィ(新人)のことを語る

烏丸通を北上し、上御霊前通から西に向かって御霊神社へ

御霊神社はその名の通り、平安時代の御霊信仰の広がりによって建てられた神社です。

「応仁の乱勃発地」とありますが、それぞれの事情で内外に対立関係を生じていた有力守護家が東軍と西軍に分かれていき、京都で最初の武力衝突に至った事件という感じでしょうか。
以前より家督を争っていた東軍方の畠山政長と西軍方の畠山義就が戦ったのが、上御霊社境内(当時はもっと広大だった)「御霊の森」でした。
かつて幕府から討伐を受けた義就が山名宗全の猛プッシュによって復権を果たし、管領職も斯波義廉に代えられて面目を失った政長は正月17日深夜、自邸を焼いて叛意を表すとともに上御霊社の社叢に陣を張りました。
将軍義政はこれを畠山氏の私闘とみなして加勢を禁じ、東軍方の細川勝元と京極持清らは静観しましたが、西軍方ではしびれを切らして御所を出て攻め込んだ義就に山名宗全と斯波義廉が加勢、正月18日の日没頃から早朝にかけて戦った後、政長の敗走により西軍方の勝利となりました。

今は静かな神社です。花御所とは室町の将軍邸のことで、そこに勧請されたという八幡宮跡の石碑のようです。

結構しっかりした解説が提示されてます。義就の読みが昔の「よしなり」になってますが、今は「よしひろ」ですね。
御霊の合戦での勝利によって主導権を握った西軍に対して、東軍も密かに兵を集めて幕府の制圧を企み、応仁元年5月26日に室町殿のすぐ向かいにあった西軍方の一色義直邸を襲撃、西軍も山名宗全邸南方の細川勝久邸を襲撃する事態に発展、やがて領国から軍勢を上洛させた東西両陣営は洛中から洛外へと戦線を拡大し、東西分裂による幕府の弱体化と京都の荒廃を招くことになるわけです。