次は篠原長房メインでブログの記事をまとめているところなんですが、長房個人の事跡よりも、義昭方の繋がりと松永久秀の立ち位置とかで激しく寄り道中です。
長慶死後の混乱は三好政権の内訌として三人衆vs松永久秀という構図で捉えられがちですが、どうも違うように感じられてきました。
かねてから反三好方であった畠山氏が、義輝殺害の翌月には上杉謙信に挙兵を促すとともに朝倉義景、武田義統、織田信長を調略していることを伝えているんですが、三人衆と敵対した松永父子はこの畠山氏と結んでいるのです。
松永父子の本拠地大和で対立している筒井氏が引き続き三人衆と提携したことも原因でしょうけど、天野忠幸先生が推察されている通り、久秀が義継らによる義輝の殺害当初から覚慶(義昭)の擁立を企んでいたと考えると、これはもう義昭方に付いたってことではないかと。
義栄の将軍擁立によって三人衆と四国衆から蔑ろにされた義継が憤りのあまり敵方の久秀に走ったとされていることも、当初は長慶の路線を継承し足利将軍家を越えようとした義継ら三好宗家と、これに反して義栄を奉じることで実権を握ろうとした阿波三好家の対立が、義昭方と義栄方の対立に変化したものと捉えることができるわけです。
それから、Wikipediaには義栄擁立に久秀が関わったように書いてますが、これも流れを考えると疑わしいかなと。
義輝殺害の半年後にはもう三人衆と対立してますが、そこから義栄擁立までさらに半年かかっているので。足利将軍家の扱いをどうすんのか決まらなかったんじゃないかと。
そういや天野先生の長慶本を最初に読み終わった時も同じようなこと考えてた…。
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/316613946063508106