このシリーズ記事「足利義昭が見た戦国乱世」を遡って読んでみたら、長慶の死によって義栄擁立派が暴走して義輝排除に及んだのでは、とも推測されてますね。
ただ、義維らが大内家滅亡(弘治3年)までには周防を離れていたという推測については、阿波公方側の史料では永禄6年とされているので大きな隔たりがあります。(もっともこの年次もあまりあてにならない印象ですが…義輝殺害も永禄6年って書いてるし)
三好長慶が氏綱方となるまでの間、細川持隆と大内義隆が阿波公方をどういう意図で庇護していたのか、また細川持隆と三好実休が対立に至った詳細など、まだ不明な部分が多いのですが、ひとまず分からないまま考えたところをもとめるほかなし…手元に資料もないので。