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ホリィ(新人)のことを語る


鹿野はちょっと海から離れていて、鉄道の駅も近くにはありません。
近代化から取り残されたためでしょうか、司馬遼太郎の「街道をゆく」には「人通りは、ない」そして「えもいえぬ気品をもった集落」と書かれている、そんな町です。

鹿野城は因幡と伯耆を結ぶ重要拠点で、織田と毛利の戦いでは毛利方因幡衆の人質が置かれていた城でしたが、天正8年の第1次因幡攻めで秀吉の攻撃によって陥落し、亀井茲矩が入城します。
鳥取城は厳重な包囲網を敷かれた上に人質まで盾にされ、城主の山名豊国は織田方に降伏したのですが、毛利から離反して抗戦していた伯耆羽衣石城の南条氏が吉川元春の進出によって劣勢となり、元春の調略を受けた重臣達は豊国を追放して再び毛利方の手に渡ります。
この時は鹿野衆も城主の茲矩に背き、羽衣石城との間に荒神山城を築いて入城しています。亀井氏は元々尼子の家臣で因幡に地盤を持たなかったことも影響したのでしょう。
その後、城主を失った鳥取城は、石見吉川家の出身で福光城主の吉川経家が新たに城番となり、天正9年の秀吉による第2次因幡攻め、あの凄惨な籠城戦となるわけですが、その間も兵糧不足の状況で鹿野城、羽衣石城とも何とか持ち堪えています。(秀吉は鳥取開城後、一旦退却して山陽方面に兵を進めたため、孤立した羽衣石城は落城することになりましたが、南条氏は後に東伯耆三郡を与えられて復帰しました)

亀井茲矩は関ヶ原の戦いで東軍に付いて旧領を保ち、河川改修、新田開発、殖産興業に力を入れて善政を敷いたため、二代目の政矩の代に津和野藩に移るまでの37年、城下町は小さいながらも繁栄していたようで、今も風情のある町並みが残っています。(この日は暑くて歩いて回る元気がありませんでしたが…)
かつて山中鹿介らと共に尼子勝久を奉じて毛利と戦った亀井茲矩は、出雲復帰の夢は叶わなかったものの、鹿野城を拠点として戦乱を生き残り大名となったわけで、津和野亀井家にとって「聖地」というのはそういうことなんですね。