弘治年間に武田信虎の子(信顕)が三好氏に取り立てられたという伝承があることから、早くから三好氏は今川・武田と誼を結んでいたのではと思ってましたが、信濃を守護の小笠原氏へ返還するのが長慶の意向だったとすると、むしろ武田とは敵対することになりますね。
将軍から各地の大名への和睦斡旋や上洛要請は、三好氏の圧迫に対抗して自らの権威を高めようとしたものと解釈されてますが、少なくとも小笠原氏の復帰を目指した一連の動きについては、両者の意向が一致していたのは間違いないでしょう。
そう考えると、将軍を迎え入れてからの義輝と長慶の関係は、後の義昭と信長の関係にも近いものを感じます。
長慶が足利家をどう扱おうとしていたのかがまだ見えてこないので、義輝の殺害も、阿波公方の擁立も、果たして長慶が計画していたものなのかどうかは判断できませんが…。
阿波公方の伝承では、周防に隠棲していた義冬を三好長逸が永禄6年に説得して再び平島館に連れ戻したとあるので、長慶の生前から次の将軍候補とする選択肢があったのかもしれません。
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