将軍義輝から「小笠原大膳大夫帰国事」との謙信への御内書が送られたのが、永禄4年3月。
高槻にある本山寺には同年閏三月、小笠原長時が信濃への復帰祈願を依頼した願文が提出され、同じく喜三郎(貞慶、当時は貞虎)からの書状によると「今度下国身上儀に付き、存分の儘候ば、其相応の地に随い寄進申すべく候」とあるそうです。
この流れを読むと、信濃復帰を図った貞慶が将軍の御内書とともに謙信のもとへ下った可能性が高いこと、そして永禄4年8月に謙信が出陣し大激戦となったあの第四次川中島の合戦には、義輝の意向(≒三好長慶の意向)が関わっている可能性が高いわけです。
なお、2010年に開催された山梨県立博物館の特別展「甲斐源氏 列島を駆ける武士団」に出品されたという、この小笠原貞虎(貞慶)書状について、丸島和洋氏も同様の見解を示されていました。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kazu_maru/zakki2010.html
>貞虎が「就今度下国」といっている点に注目。同月四日付の御内書(「上杉家文書」)で、足利義輝が上杉謙信に小笠原長時の帰国支援を命じている事実とぴったり符合します。第四次川中島合戦の約半年前のことですので、いろいろと話が広がりそうです。
天野先生が三好氏と上杉氏の連携を指摘されていたのも、これらの情報を咀嚼した上でのことなんでしょうね。