『武辺咄聞書』の読みやすい翻刻文を載せてるサイトを見つけた
http://www.kikuchi2.com/buhen/buhaki.htm
これの23話に、信長が三好長慶に会いに行ったという話があります。
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信長は夫より河内国高屋の城へ行、奏者を頼被申入は「某儀は織田上総介信 長にて候。尾張の本領を以三好家へ進上可仕候。其代地を五畿内にて可賜候。左候はゝ 譜代の士卒五千余にて三好殿の御先手を可仕」と望給ふ。三好長慶聞て「是は兼て聞伝 へたる勇士也。其所望に応せん」と宣ひしを、松山松謙斎・松永弾正等諌て曰「信長去 年五月桶狭間にて今川義元を打取たる手柄、惣て其行跡を聞に常人にあらず。必三好家 の禍の根に可成」と支る故、事不調して、信長空敷尾張へ御帰り也。
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桶狭間合戦の翌年のこと、近習8人を連れて京都に入った信長は三好長慶が天下の実権を掌握していることを知り、河内の高屋城・若江城にいるという長慶に会うため堺に下って、町人の家を借りて逗留し作戦を練っていたところ、斎藤義龍が遣わした刺客20人が堺にいることを聞きつけて、逆に近習8人と共に殴りこんで凄んだら刺客達はびびって美濃へ逃げた。
その後、信長は高屋城へ赴き、尾張を三好家に献上する代わりに畿内に領地を賜りたい、そうしていただければ五千の兵を率いて三好殿の先手を務めようと申し出た。かねてから信長の勇名を聞き及んでいた長慶は、望み通りにしようと言ったところ、松山松謙斎と松永弾正たちが将来の禍根になるからと、諌めたという話。
よく「松永お前が言うな」とネタにされる逸話です。
松山松謙斎こと松山重治は現在あまり名前は知られていませんが、三好麾下で各地を転戦して頭角を現した武将で、永禄元年の将軍義輝方との戦いで白川口において西岡の国人達を率いて活躍、また永禄5年の教興寺の戦いや、永禄6年の松永久秀の大和平定戦における多武峰との戦いで戦功を立てた、言わば司令官クラスの武将の一人です。
常山紀談にも通称の「松山新助」として登場、家臣の中村新兵衛の逸話が収録され、またそれを元に菊池寛が『形』という小説作品を書いているようです。