二巡目終了が近付いてきましたが、武家政権との関わり方や延暦寺との関係の変化を、真宗本願寺と比べて見るのが面白いです。
2つの新仏教がなぜ一揆化したのかは、嘉吉の徳政一揆が与えた影響が大きいと見られています。
この時の土一揆はただの暴動ではなく、赤松討伐のため幕府軍が京都を留守にした隙を突いて数万に及ぶ土民が京都に討ち入り、東寺など洛中洛外の顕密寺院に立て籠もって仏閣を焼き払うと幕府に強訴し、やむなく幕府は徳政を実施、「悦ぶもの多く憂うるもの少なし」という結果をもたらしました。
日蓮宗の檀徒には土倉(金融業者)など富裕層も数多く、損害を被った者は多かったと思われますが、身を持って一揆の力を知ったのか、その25年後に起きた延暦寺の楞厳院閉籠衆による弾圧の際には、これまでのように寺院を捨てて退散するのではなく、洛中に29を数える日蓮宗寺院が談合して幕府に働きかけた結果、寺院の破却は幕府により阻止されたそうです。
嘉吉の徳政一揆の際も侍所頭人を務めていた京極持清はこの時「京都の半分は法華宗たるうえは、信心の檀那ら身命を捨ててこれを防戦せば、洛中もってのほか乱れるべし」と発言したとも。
一方で本願寺はこの年、延暦寺西塔の大衆によって大谷の本山を襲撃され、その2年後の応仁元年には青蓮院門跡の口添えにより、西塔に毎年末寺銭を支払う契約を結んでいます。
京極持清は応仁の乱では東軍方で戦っていますが、都鄙悪党の頭目といわれる骨皮道賢を登用したことでも知られています。いわゆる下剋上の風潮を肌で感じつつ、現実的な対応をしていたんでしょうね。この辺りは早島大佑氏の『足軽の誕生』とも重なる内容。