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ホリィ(新人)のことを語る

午後の部は、ちょうど今読んでる『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』の編者をされてる仁木宏先生、福島克彦先生など有名な研究者がいらっしゃる中、皆さん普通に馴染んでる感じで、今時の若者っぽい感じの人も「勉強熱心な学生さんかな?」とか思ってたら実は名の通った研究者だったりして、もしやずぶの素人は僕だけなのではと多少の場違い感を覚えつつも、とても面白くためになる内容でした。


僕としては山田康弘先生の発表「戦国時代における足利将軍の城館」が特に興味深い内容でした。
10代義稙が美濃より上洛した延徳元年から、15代義昭が新武衛陣御所に入った元亀元年まで、各足利将軍の足取りを一次史料から丹念に追いつつ、なぜこの時代の足利将軍が洛中に城を築かなかったのか、義晴・義輝が東山周辺に山城を築き始めた背景を考察されてました。
義輝の性格が好戦的だったというのもありますが、将軍を取り巻く政治状況の変化、とりわけ長く近江へと追いやられた義晴の時代があって、将軍は自衛のため山城の構築に執心するわけですが、京都を追われた状況でも相国寺などに今出川御所の留守番を命じ、将軍の帰るべき御所が洛中に存在することを示し続けたという話。
義輝は天文22年に三好長慶と対立して霊山城に挙兵して敗れた後、永禄元年の改元に際して再び三好長慶と勝軍山城で戦った後、同年末には和睦して京都への帰還を果たしますが、その間にも山科言継が永禄元年4月に「武家御所」の庭を見物、6月にも勧修寺門跡を案内して御殿を見物していて、今出川御所は健在だったと見られるそうです。

配布資料を見ると、将軍は妙本寺や妙覚寺といった法華宗の本山寺院に入ってることも結構多くて、その辺りは今併読している『日蓮宗と戦国京都』の内容にも繋がってくるのかな、という感じ。