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ホリィ(新人)のことを語る

続き

2.京都の戦国の城を読む
・畝状空堀群から城の発達を考える
竪堀を横に連ねたものが畝状空堀群。戦国期に大流行して、東北から鹿児島まで全国的に見られる。単純な竪堀群から、竪堀群の上部を横堀で繋げて、更に上部は高い段差を築くように進化した。
福岡県の長野城は全方位にものすごい数の竪堀が伸びている。(検索してみたら、竪堀の数では日本一と言われてる城らしい)

・世界の畝状空堀群
日本だけではなくドイツの城でも同じことをやっている。Birg beiのKleinhohenkirchenという11世紀の城。(先生はドイツ考古学研究所に留学していてヨーロッパの城にも詳しいみたい)
ヨーロッパでは早くから畝状空堀群が出現しているが、その後、土の城から石造りの城に進化した。時期は異なるが進化の方向性は世界的に共通している。

・城に反映した城主の心
本丸後方からの侵入をどのように遮断しているか、城主の気持ちになって見ると面白い。(実際の縄張図を挙げて色々と面白く想像を語られてたけど、メモってない…)

3.京都と天下人の城
・移動する天守
・大和郡山城、二条城、淀城
法隆寺の大工の棟梁が書いた「愚子見記」には大和郡山城天守が二条城へ移築されたことが書かれている。
1624年に後水尾天皇の行幸のため伏見城の天守が二条城へ移築され、旧天守(元は大和郡山城の天守)は淀城へ移築されるという、天守の玉突き人事が行われた。
元の計画では淀城には伏見城の天守を移す予定だったらしい。
最近、大和郡山城では天守台の石垣の整備に伴う発掘調査で天守の礎石が発見され、天守と付櫓が一体化して建てられていたことが分かった。(福山城の天守と同じような形)
大和郡山城の天守の礎石と淀城の設計図の天守を重ねると、ぴったり一致した。
淀城では元の計画の影響で、実際に移築された天守(旧郡山城)よりも天守台が広すぎたため、四隅を多門櫓で囲むという面白いことになっていたらしい。この天守を復元すればいいんじゃないか。
岩佐又兵衛の舟木本洛中洛外図屏風に描かれている二条城天守は旧郡山城のものではないか?
高津本洛中洛外図屏風の二条城には二つの天守が描かれているが、「愚子見記」によると旧郡山城天守(手前)と旧伏見城天守(奥)の両方が建ってた時期があり、ちょうどその時に描かれたものではないか。