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ホリィ(新人)のことを語る

手元のメモから話の内容を紹介します。(聞き違いとか解釈のおかしい部分はあるかも)

1.描かれた京都の城-絵画資料と城郭遺跡
・「洛中洛外図屏風」-足利将軍邸と武士の館
歴博甲本洛中洛外図から、将軍義晴の「柳之御所」には礼門と通用門が描かれている。身分の高い人の屋敷には必ず二つの門があった。
鬼門にあたる北東の角には鎮守社が描かれている。
細川高国の管領邸と右馬頭(典厩)邸が並んで描かれている。(高国政権期なら典厩家当主は従弟の尹賢?)

偉い人の邸宅の主殿には扉がたくさんあって、身分によって通る扉が決まっていたが、上杉本の花の御所は裏側から描かれていて、結局同じ部屋に繋がってるだけというのが分かる。
園城寺の光浄院客殿では洛中洛外図に描かれたように、三つの扉が並んでいるものが見られる。
http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/building/03.htm

江馬氏の下舘の発掘調査では礼門と通用門が発見されたが、復元されたのは礼門と通用門手前の土塀までで、そこから先は生け垣になっていて、通用門があるべきところは本当の通用門みたいな状態。残念!

・「参詣曼荼羅」-寺と城
雪舟の「天橋立図」には実は城が描かれている。同じ宮津を描いた「成相寺参詣曼荼羅」にも同じように城が描かれていて、「一色…」と書かれた札が貼られているが、途中で破れている。丹後守護一色氏の今熊野城?阿弥陀ヶ峰城?
「清水寺参詣曼荼羅」を見ると町中に櫓門と狭間が描かれていて、防御施設があったことが分かる。

・絵画資料が描いたものをどう読むか
上杉本にも「さいのしろ」(西院城)の櫓門が描かれているが、裏側には壁がなく丸見え。門が突破されても櫓から内向きに攻撃できるように?
1946年に米軍が撮影した航空写真を見ると土塁と環濠の跡が窺え、大体の城域が分かるが、京都府が西院城跡に指定している面積よりかなり狭くなってる。
石川県にある鳥越城跡では本丸櫓門が上杉本の西院城のように櫓の後ろには壁がない形で復元されたが、実際には冬など寒過ぎて篭もれるものではないんじゃないか。
ヨーロッパの城でも同じように櫓門があり、裏側が空いているものがあった。
櫓門は奪われたら攻撃の拠点にされてしまうこともあるので、逆に内側は壁で囲って窓を作らない城もある。