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ホリィ(新人)のことを語る

湯築城資料館で購入した「湯築城歴史塾要旨集」2011年度、2013年度、2014年度の物。1冊200円。
編集者は河野氏をよく研究されている西尾和美氏、山内譲氏、それに南北朝から室町・戦国期にかけての幕府・守護体制の研究で知られる川岡勉先生など。
河野氏のまとめを安価で入手できること自体も魅力的でしたが、2013年度のに西尾和美氏の「織豊期河野氏と河野通昭」があったので即買いしました。
『河野家譜 築山本』から見える、謎の多い河野氏宗家の終焉から通昭、築山氏への繋がりについてまとめられています。

広島藩に宍戸司箭(家俊)を開祖とする貫心流という武術が伝えられていますが、その系譜上で司箭の弟子とされているのが河野大蔵通昭です。
宍戸司箭は細川政元の修験道の師匠と伝えられている人物で、そういう関係で興味を持った次第です。
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/299854252070946184

通昭は河野氏の一族で、惣領家の左京大夫通宣の庶子で実母を荒木氏(荒木村重の一族)としていますが、嫡母は宍戸隆家の娘、つまり毛利元就の孫娘で河野氏最後の当主・通直の母とも伝えているそうです。
また興味深いことに築山本には「秀吉襲撃計画」が伝えられていて、竹原に蟄居した通直はその武勇を見込んで山城国芹川村にいた通昭とともに計画を進めていたものの、未遂のまま死去し、通昭の子・通許は築山氏に改姓して堀尾氏に仕え、浜松そして出雲富田に趣き、通昭の孫・通護もやはり通昭の武名によって浅野氏に仕えたそうです。

また、通昭が蟄居していたという海徳寺は現在の伏見区鳥羽にあり、境内墓地には河野氏および築山氏関係者の墓が多く存在、近隣には「河野大蔵通昭」の墓もあり、墓石には亨保16年(1731)に芹川村在住の築山助之進越智通政が建立したと刻まれているとのこと。
貫心流との歴史的な繋がりは不明ですが、広島藩において河野通昭が当時から勇名を知られていたとすれば、ただの伝承と捨て置くには惜しい話です。