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ホリィ(新人)のことを語る

天野先生の長慶本をチェックしたら、瓦林左馬允秀重は喜多土佐守重政らとともに、多聞山城主時代の家臣として挙げられていました。
秀重の他に瓦林長房という人物が三好義継に仕えたそうで、秀重は久我家の家宰として知られる竹内季治とその弟・秀勝などと併せて、一族で三好宗家と関係を持ちつつ久秀にも仕えた家臣として分類されています。

また、中川貴皓氏『松永久秀被官に関する一考察 ―山口秀勝を中心に―』という論文には松永氏被官発給文書目録が付録されていました。
瓦林左馬允秀重は永禄5年7月と9月、元亀元年10月から12月の連署状などを残していますが、宛先は東寺が1通ある他は春日社や法隆寺、興福寺など多くが大和での活動のようです。
最後まで久秀に付いていったのかどうか…?

天野先生の長慶本の索引から、越水城を築城した瓦林政頼の他の瓦林(河原林)さんを時代順に挙げると

享禄5年(1532) 河原林帯刀左衛門尉…細川晴元が三好元長を討つよう動員した国人の一人。
天文9年(1540) 河原林幸綱…長慶が越水城主時代に西宮神社の千句講を保護するため西宮の寺に田地の寄進を行うが、それ以前の千句講の保護者。
天文17年(1548) 河原林弥四郎…長慶が晴元方を離反して氏綱方に付いた際、これに味方した人物。
天文17年(1548) 河原林対馬守…細川晴元が長慶離反の原因となった三好政長・政生父子に加勢させ、榎並城に入城させた旧越水城主。(当時は牢人)榎並城の落城時に政生と共に城から逃れたとも。
永禄4年(1561) 河原林帯刀左衛門尉…足利義輝の三好義興邸への御成の際、池田勝正らと共に警固を担当。
永禄4年(1561) 河原林源助、河原林与一兵衛、河原林摂津守…足利義輝の三好義興邸への御成に列席。
永禄9年(1566) 瓦林三河守…池田教正、野間長久・康久父子らとともに松永方に付いて三人衆方に対抗した「越水衆」の一人。

系譜はよく分かりませんが、三好長慶が氏綱方に付いた時に旧越水城主と称している河原林「対馬守」は、瓦林政頼も称した受領名です。