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ホリィ(新人)のことを語る

ただ、講和したと言ってもそれで共に矛を収めたわけではなかったのは事実のようで。
天野先生の長慶本によると、天文3年3月には抗戦派の下間頼盛が証如を人質に取って、再び細川晴国ら旧高国党と組み晴元方と戦ったとのことで、これに三好連盛・久助(後の長逸?)が同調し、晴元方の椋橋城を攻略したとあります。

実従の「私心記」にも関連してそうな記述がありました。淡々と日々の記録が書かれているので、これだけでは何のことやらという感じですが…(天野先生は「宝珠院文書」から状況を読み取られたようです)
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天文三年 二月十一日
三宅御門徒ニ可成由、申候。
(出羽守カ)

天文三年 六月五日
三好伊賀・久介 此方ヘ来リ候。野田陣也。汁三菜六。
○朝勤アリ。
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門徒になったという三宅はおそらく三宅出羽守国村、摂津では池田氏、塩川氏、伊丹氏らと並ぶ有力な国人で、この頃は旧高国党として晴国を擁立していたようですが、間もなく裏切って晴元方につきます。

三好伊賀守がおそらく連盛で、この辺りの流れは結構複雑ですが、まだ幼い千熊丸は三好一族(というか旧元長派)を一本にまとめきれていなかったようです。
ちなみに三好政長は父の長尚の頃から元長派から離れ、すでに晴元の側近として権勢を強めています。後に三好政長と木沢長政という側近同士の対立が摂津の国人衆の動向にも影響を及ぼします。